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記号化するニコラス・ケイジ

以下殴り書き

 FBIから潔癖性の詐欺師、武器商人になったと思ったらテンプル騎士団の秘密を受け継ぐ一族の末裔まで、さまざまな人生を生きているニコラス・キム・コッポラ兄貴は、ハリウッドが宇宙だとした場合、おそらくアルファ・ケンタウリほどの大きさで輝く、比較的明るい星であると言えます。


で、そのアルファ・ケンタウリの出張所には「ほとんど無害」と書いてあるとかいないとか、とにかく、ニコラス・ケイジと聞けば「詳しいことはわからないけれども頭の中になんとなくニコラス・ケイジがほわぁんと浮かぶなあ」というくらいの圧倒的知名度を持っていらっしゃるわけです。

 

 ニコラスケイジ主演の映画は、総じて楽曲が良く、あらすじも最高でいざ本編がはじまるとお察しの場合が多いのですが、このことに気付いたのがほんの数日前、たまたまHuluで見始めたニコラス・ケイジが武器商人を演じる「ロード・オブ・ウォー」だったわけで、冒頭にBuffalo SpringfieldのFor What It's Worthが流れた瞬間に一気に期待がこみ上げたはいいものの、あとはずっとニコラスケイジが断続的にかなりの割合で映し出される映画だったのです。

 

 何かがおかしいことに気付き、ついでにニコラスケイジが潔癖性の詐欺師を演じる「マッチスティックメン」を観たところ、これまたオープニングは、Bobby DarinのGood Lifeがパーティーの夜に酔っ払って女の子をお姫様抱っこしてぶちこみたいプールランキング上位に入るようなプールをなめるようなカットの中流れるのですが、これもまた「ギャングスター・ナンバーワン」という映画の(これまたサントラが秀逸なのですが)オープニングにも使用されている(シンガーが違うけれども)私の琴線をくすぐる選曲なのです。

 

 で、「リドリースコットだしぃ、まさかねえ」と思いながらも見続けたところ、あとはずっとニコラスケイジが断続的にかなりの割合で映し出される映画だったのです。

 

 つまりはこうです。どんな役柄だろうが、どんな脚本だろうが、私がニコラスケイジが出演する映画をみると「ああ、またニコラスケイジが動いている」と思ってしまうことに気付き、とてもわかりやすく例えるならば、「デレクジャーマンのブルーの本編が青一辺倒ではなく、ニコラスケイジのバストアップがずっと映っている状態」のような感じで、もっと言ってしまえば、「黒死館殺人事件法水麟太郎がニコラスケイジだった場合、ファウストだゴシック・ロマンスだの評の前に、「ニコラスケイジ」の7文字で説明、2秒で解決できてしまう」のです。

 

 これほどまでにニコラスケイジがニコラスケイジなのは、もはやニコラスケイジが、ニコラスケイジという人格を上部構造まで昇華し、すでにニコラスケイジという「因子」のようなものであり一種の「ミーム」のようなものなのではないかとすら思えてきて、私はもしたしたらニコラスケイジなのかも知れません。幸福は義務です。

 そう、つまり私の中ではニコラスケイジがもうすでに記号化してしまっていて、バックトゥーザフューチャーとジャッキーチェンは吹き替えでないと気持ち悪い(あとなぜかクリス・タッカー)と同じくニコラスケイジの因子が私を蝕んでいるのです。

 

 これは他の俳優にでも言えるのでしょうか? 例えば、これがブルース・ウィリスならば
「ああ、アクションものだな。大体半袖〜タンクトップだな」ということが推察でき、ジャックブラックであるならば「おそらくコメディで顔芸多目だな」と想像できますし、シュワルツネッガーならば「筋肉だな」となりますし、ウディアレンならば「眼鏡」となるわけです。

 

 しかし、ニコラスケイジはどうでしょう? そう、ニコラスケイジは「ニコラスケイジなんだな」としか推測しようがないのです。
 これはボブディランの新譜が出るたびに「たぶんボブディランみたいな感じだろうな」と思うのと非常に似ています。

 

「ニコラスケイジ主演!(このあとに○○で○○な○○のような大体映画の本質を突いていない珍奇なキャッチが並ぶ)」と書いてあっても、「火薬多めだな」「ラブシーン微妙そうだな」とは思わず、強制的に脳が「ニコラスケイジなんだな」と認識してしまうのです。

 

 だから、映画を観てニコラスケイジが出演していると、まるでカタカナを覚えたての子どもが電車に乗りながら過ぎ去る看板の文字を読みまくるがごとく「あ! ニコラスケイジ!」ってな具合に、脳内のニコラスケイジと、画面内のニコラスケイジが融合し、最新のニコラスケイジ10.2.6みたいな感じでアップデートが行われます。

 

 こうなってくると、もう3Dなんかでニコラスケイジを観た日には、おそらく道行く人が全てニコラスケイジに見えてしまうでしょうし、「この箱の中におそらくニコラスケイジが入っているが、実際にニコラスケイジが入っているかどうかは箱を開けるまでは確定しない」だったり、「ニコラスケイジがひとつずつ臓器を移植していったとして、全ての臓器を移植し終えた後のニコラスケイジは、ニコラスケイジと言えるのであろうか?」というやや無茶ぶりな問答を考えると夜も眠れません。

 

 これほどまでに偉大に記号化されたニコラスケイジですが、ニコラスケイジが出て来た瞬間に映画全体が絶望的なまでにニコラスケイジナイズされてしまうことにより、内容は忘れ去られ、全てがニコラスケイジとして再創造され、月が作られ、火が作られ、水が作られ、7日目には二日酔いを残して完結してしまうという、混沌もびっくりの天地創造が大体90分〜120分以内で体験できるというのは、現世に生きている人々だけが味わえる宇宙の果てのレストラン的なニコラスケイジアトラクションと言えるのかもしれません。

 

 私もニコラスケイジ、あなたもニコラスケイジ、お父さんもお母さんも本質的にはニコラスケイジ。世界中の人がニコラスケイジの因子を芽吹かせることにより、世界平和が実現できるかも知れないという可能性が源氏の盾を盗めるくらいの確率で存在しているのです

珠玉のクソレコ(空想レコード)レビュー「Don Juan」/「Don Juan(邦題:球体戦争)」

仕事の合間に、趣味で作成していたLPサイズのフォトコラージュに「こんなバンドいたらいいな」という具合に架空のバンドを後付け設定してみるこの企画。

今回は70年代前半を流星のように駆け抜け、成層圏で塵と化したバンド「Don Juan」のレビューをしてみました。


ですので以下の記述は全くの創作・デタラメです。

 

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1973「Don Juan」1st.album「Don Juan」邦題:球体戦争

 

歴史
米国ミズーリ州で養豚業者を営んでいたマイケル・ピッグメン・カラスコは、1972年にカルロス・カスタネダ著「呪術師と私-ドン・ファンの教え」に衝撃を受け、経営する養豚業者の豚を全て売り払い、ジェファーソンシティにある質屋でフェンダーメキシコのテレキャスターを購入する(後にこのテレキャスターはネックだけを取り替えた中国産であったと本人は証言している)。

 

同年、豚の売却金を元手にセントルイスへ引越し、壁紙が薄緑色で道路に面していない部屋を借り、イーズ橋で「縦に重なり合った二つの輝く球体に見える人間」を探し始めるが、見つからないため2ヶ月で挫折し、メンバー募集の張り紙を「できるだけカラスがとまっている電柱」に貼付けて歩いていた(※要出典)

 

メンバー募集の張り紙に「求む。煙と盟友の人間。楽器ができるとことさら良い」などと書いてしまったので、大麻の売人や冷やかしで連絡をしてくる者が後を立たなかったが、当時文化人類学を専攻していたものの、就職が決まらずにぶらぶらとしていたジェシー・ジェイムズと名乗る人物(ジェシー・ジェイムズはアメリカ西部開拓時代のガンマンの名前なので、本名ではない可能性が高い)が張り紙を見つけ、マイケルに連絡を取る。

 

初顔合わせの当日は「セントルイスのどこかのバス停で15時」という至極曖昧なものであったものの、奇跡的な確率で二人は同じバス停に現れることとなる(※要出典)

 

二人はすぐに意気投合し、バンドを組むことを決意。バンド名はカスタネダシリーズの登場人物より「Don Juan/ドンファン」と命名された。

他のメンバーはジェシーの大学時代の同級生を誘い、初期メンバーである


マイケル・ピッグメン・カラスコ/Vo./Gu.
ジェシー・ジェイムズ/Gu.
マーティー・ローズ/Ba.
ディック・チョウ/Dr.


の4人体制で練習スタジオに籠る日々がはじまる。

 

ちなみに金銭的な問題はマイケルが豚を売り払った残金で工面していた。

 

翌年2月にセントルイスのライブハウス「コールドターキー・スイムクラブ」で初のライブを経験。
ベースのマーティーが一曲目「ポークチョップ・ブルース」でのベースソロを長く取りすぎたため、ライブ後にマイケルと言い争いになってしまう。

 

この時マーティーが吐いた

「この汚いブタ野郎!」

という台詞でマイケルは激怒

「ブタは汚くない! むしろキレイ好きだ!」

と激しく反論し、その結果マーティーはクビになってしまい、以後ジェシーがベースを務めるようになる。

 

3ピースながらも客席から演者が見えないほど過剰にスモークを焚く、途中で自身のサイケデリック体験を豚の解体と交えながら延々とギターのフレーズに載せるなど、ブルース寄りからスピリチュアルな方向に転換したバンドサウンドは、徐々に人気を博していく。
(豚の解体トークがあまりに的確すぎるため、音楽に興味がない畜産関係者も多く訪れていた※要出典)

 

これが当時セントルイスにあり、DOORSの二番煎じを探していた小さなレコード会社の社長の目にとまり「Don Juan」はレコードデビューを勝ち取ることとなる。

 

契約から3ヶ月後に発売されたファースト・アルバム「Don Juan」は、マイケルの方向性が如実に反映されるも、売上的には失敗に終わる。
この頃より、豚の売却資金が尽きたマイケルは方々に借金をするようになり、生活は荒れていった。

 

また、この失敗からドラムのディックが「豚は食えても音楽は食えない」と捨て台詞を残して脱退。残ったジェシーも金銭的な理由から副業としてやっていた大学教授のフィールドワークの手伝いに南米に行くこととなり、バンドは解散となる。

 

一人残されたマイケルは失意の中、実家に戻り親戚のツテを辿って再び養豚業者に復帰し、現在では豚に聞かせると肉質が良くなる音楽の研究をしている。

 

レビュー
一曲目「ナワール・パート1」から最後の「ナワール・パート16」まで全体を通して破滅的に気の抜けたSEが散りばめれている。
しかし、そこが逆に稚拙な演奏を一種スピリチュアルと言っていいほどまでに昇華させているスパイスであるとも言える。
特筆したいのは時折入る豚の鳴き声で「豚の鳴き声とはこれほど沢山の種類があるのか!」という元養豚業者ならではのアイデアで、人生に全く役に立たない気付きを与えてくれる。

 

そもそもテクニック面や知識不足を補うために「養豚」という得意分野をこれでもかと入れてしまった感はいなめないのだが、見方を変えればロートレアモン伯爵の「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」という着想から音楽をコラージュしていたとも言えなくはないかも知れない。
後世の評価を待つ早すぎた一作である。

『ドラえもん/のび太の海底鬼岩城』のかなりうろ覚えなあらすじ

イカ殴り書き。

何でも出てくる未来デパートの上顧客、ネコ型ロボット(自称)ドラえもんと、その愉快な仲間達(眼鏡、筋肉、髪型、清楚系ビッチ)が繰り広げる大冒険。

海が良いか? 山が良いか? というキノコタケノコ論争、ウドンソバ論争、日本語ロック論争のように比べてもしょうもない議論をしている愉快な仲間達(眼鏡、筋肉、髪型、清楚系ビッチ)が、もう怒った、お前は海の良さがわからん、いや、お前こそ山の良さがわからん。こうなったら民主主義だ。未来デパートの上顧客にこの夏休みの運命を決定づける強烈な一票をお願いしようではないか。

 

という民主主義をはき違えたような考えから、決定をやや暴力的に、結構な具合で民主主義に反する形かつ高圧的な態度でドラえもんに迫ったところ、

「じゃあ海も山も両方行ければいいんでしょ」

と割と雑な大岡裁きでお裁かれになり、海底の山に遊びに行く。という何とも物騒な一夏の経験がはじまる。というのが一応のプロローグである。

 

いつもの旅情のかけらもない、目的地に一瞬で到達する(一説によれば、扉をくぐった瞬間、分子レベルに分解され、出口で再構成されるらしいので、扉をくぐる前の彼等と、扉をくぐった後の彼等が同一ではないとすれば、冒険はそこで終わりを迎える。)どこでもドア(カタログ番号:M-04、商品番号:MD401-E、価格:640,000円)をくぐった先には一面の砂浜、よく考えたらその後ろに山とかあったんじゃねえの、と思うのだが、彼等の目にはもう海しかうつっていない。

 

そこで、ドラえもんがやたら強いAIをもった水中バギー(後にバギーちゃんとしずかが命名)が登場し、割と過剰積載な感じでおもむろに海に突っ込んで行くと、全員窒息しました。

 

ということにはならずに、そこはしっかりと「テキオー灯」という超オーバーテクノロジーで無事解決。ところで「バギーちゃん」って人間に「人間ちゃん」ってつけるようなもんだよなあと、ふとデーモン小暮閣下における悪魔ちゃんに関してのインタビューをを思い出した。

 

で、バギーに乗って「ヒャッハー! 海底だぜぇ!」と遊んでいたところ、巨大なイカに襲われたり、しずかがバギーちゃんに(キレイな珊瑚などが周囲にたくさんあるのに)なぜかヒトデをプレゼント(勝手に貼付ける)するプレイや、ジャイアンスネ夫が一時的に死ぬと言ったアクシデントを乗り越えて、海底人と出会うまでが第一章。

そのムー連邦の自称海底人「エル」に対して

「えるしってるか、じゃいあんはかつどんしかたべない」

などの怪文書のやりとりを通して深海の水圧に負けないくらいの親交を深めていくドラえもん御一行は、そこでやたら強いAI「ポセイドン」の存在を知ることとなる。

 

自動報復装置という冷戦直系の相互確証破壊的概念を持った非常に面倒くさいこの「ポセイドン」は鬼角弾(きかくだん)という核弾頭を搭載しているのだが、自国を守るバリアーが完成した直後、核実験に失敗したポセイドンを擁するアトランティス連邦は、リフレクを貼った敵にフレアをぶち込んでしまう伝統的スクエア自滅スタイルであっさり滅亡、残ったポセイドンと取り巻きの三下衛兵ロボットは、バリアの中を未来永劫彷徨う運命かに見えたのだが

「海底火山が活動したのを自国への攻撃と勘違いして報復をします」

というちょっと天然でカワイイ一面を持ち合わせたポセイドンが、マジでやるっつうんで「こりゃおれたちの地球がヤバいんじゃない?」とドラえもん以下略が立ち上がる。

未来デパートで売っているオーバーテクノロジーを宿したアイテムにより、姿を消しながらポセイドンが待ち構えるアトランティス連邦(=バミューダトライアングル)に近付き、「もしバリアが地下まで延びていたら一瞬で俺たちは爆散する」という少々ギャンブルに過ぎる賭けにも見事に勝利、中枢に侵入することに成功。

 

テキオー灯のおかげで、死に対する恐怖心が和らいでいたのか、これまた未来デパート産のそれなりに殺傷能力の高い兵器で八面六臂の大活躍、「お前らとは場数が違うんだよ! 何度も世界救ってんだよ、こっちはよ!」と言わんばかりに小学生がばったばったと敵をなぎ倒していたと思ったら、数による面制圧であっという間に窮地に立たされるどらえ以下略。

 

しかし、満身創痍でどうにかポセイドンの前に立ちはだかったものの、とりあえずボスだけに割と強く、ドラえもん以下略のガッツは最低まで下がり、もはやドリブルも不可能といった顔面ブロック後の石崎的な状況の中、しずかの(ヒトデを貼ってくれた)慈愛に応えるため、バギーが爆弾を抱えポセイドンの口の中に突っ込み爆散、無事に平和を取り戻したムー連邦大陸の群衆の喜びの声の中、しずかの手には爆散したポセイドンのネジが残っていたのである。(しずかはバギーのものだと思っているようだが)

と、いうわけで一件落着。

ハロウィンから一夜明けて

狂気のハロウィンから一夜明け、11月に突入した。

悲しいかな、どうしても渋谷に行かなければいけなかったので、東横線でゆらゆら揺られ、地下から渋谷の街に躍り出ると、そこは出口ではなくて、冥府魔道の入り口でした。

 

もはや珍奇な衣装を纏っていなければ非国民だと言わんばかりの彼らの盛り上がりに、

「おれもあれだよ、結核ポール・ウェラーのコスプレなんだよ」

と思いながら歩いてみたものの、当たり前だが一体化出来ずに気持ちは沈み込むばかり、その時イヤフォンから聴こえてきたのは憂歌団の『嫌んなった』。何とかしてくれ神様仏様と、空気を読むアイフォンに苦虫を噛み締めながらも、無事に用事を終え、帰る頃には更に阿鼻叫喚の地獄絵図、と言うとかっこ良く聞こえるが、そこまで画数多めのことではなくて、要はおれも含め、普段はダメな人がもっとダメになって、輪になって踊っていたのである。

 

そもそも、ハロウィンは古代ケルトのお祭りである。死者の霊が家族を尋ねるというお盆にも似たその行事は、10月31日、ケルト人の夏が終わりを迎える日に行われる。そして翌日からは暗く、長い冬がはじまるのである。

で、その死者の霊は家族だけじゃなくて、たまに危ない精霊や魔女が混じってるっつうんで、「そりゃ一緒に家の中、入れるとまずいよね」という理由から、仮面を被って魔除けの焚き火をたいていたのである。これが転じてジャック・オー・ランタンとなり、素材のカブがいつの間にかカボチャになり、いつしか大陸を越えて、ミニスカポリスや権利関係のややこしいコスプレになったのである。

 

10月31日、ケルトの村々では、ドルイドの司祭が篝火を焚くと、村人たちは一斉に家の火を消す。司祭が篝火の周りをぐるぐるとまわり、作物と動物の犠牲、生け贄を捧げ、村人たちは屠殺した牛骨を炎の中に投げ込む。翌朝、司祭たちが燃えさしを各家庭に配り、新しい火をかまどに宿し、冬の到来に備えるのであった。

 

しかも、この日は1年に1回、この世と霊界との目に見えない門が開き、自由に行き来できると考えられていたことから、ことさら魔除けとしての火というのは重要だったのである。

 

さて、ケルトの精霊はタチのいたずら好きが多い。このことから、しっかりと篝火を炊いていなかった大陸を跨いだ大都市、渋谷では、多くの悪い精霊達が人々に取り憑いた結果、あのような享楽・悦楽・桃色都市と化してしまったのである。

 

その証拠に、精霊が去っていった月曜日には、気が大きくなっていたサラリーマンも、露出し過ぎたOLも、みんな何くわぬ顔をして、いつもの生活に戻っているだろう。まだ精霊が取り憑いていて、戻ってこれない人もいるかもしれない。来年、渋谷区は警察を動員するのではなく、ドルイド司祭を動員して、ハチ公前で巨大な篝火を焚き、近隣住民は恐ろしい顔をしたマスクを被り、精霊が捨てていったゴミを投げ入れながら、ハロウィンを粛々と祝うべきなのではないだろうか。